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写真88レーンの車道と2レーンの線路からなる現在の橋とサーキュラーキー(左側)写真9北岸のパイロンが移動し、次のパーツを吊り上げていくのである。クレーンが走行していた箇所は、現在メンテナンス用の設備が設置されている。1930年8月、急ピッチで進められていたアーチが閉合され、架設ケーブルは不要となった。次に車や人が渡るためのデッキ部分と、アーチとデッキを繋ぐ支柱の建設が進められた。これらの建設に9カ月を要した。その後、巨大クレーンが撤去されて高さ89mのパイロンの上半分が建設され、1932年1月、8年半をかけた工事が終了したのである。翌月にはシドニー地域から石炭を満載した72台の機関車が集められ、それを橋の上に並べて耐荷力テストが実施された。そして、開通式を迎えることができたのである。■パイロンの意味現在、橋には8レーンの車道が整備され、うち1レーンはバス専用となっている。その他に鉄道が2レーンと歩道が設置されている。幅は49mに及び80年前に建設された橋としては途方もなく広いが、この広さはブラッドフィールドが強く主張したためと言われる。交通マネジメントも担当していた彼は鉄道用として4レーンを確保しており、以前は2レーンの鉄道と2レーンのトラムが並走していた。ブラッドフィールドは将来のシドニーの拡大と、南北両岸市街地の一体化の要となるハーバーブリッジの重要性を強く認識していたのだろう。また、ドーマン・ロング社が提案した7形式案から、彼は構造的にはまったく不要なパイロンのある案を選定した。建設中にクレーンの足場として活躍はしたものの、現在は展望台、事務所、ハーバートンネルの換気塔としてしか利用されていないのである。なぜブラッドフィールドは建設費が膨らむパイロンの設置にこだわったのだろうか。それは「美しさ」写真10シドニーのゲート。夕暮れのハーバーブリッジを求めてのことであったと言われている。シドニーを世界に開かれた港街としていくために、橋の両端にパイロン(塔)を建設することで、人を迎え送り出すゲートを創りたかったのだろう。パイロンはシドニー市民をはじめとする人々の意識にハーバーブリッジの姿を根付かせ、世界中から人々を迎えるシドニーの印象を植え付けている。それは構造的には無意味でも、十分に意味のある試みであった。<参考資料>1)『Sydney harbour bridge』Richard BarnesArcadis20152)『Sydney harbour bridge Conservation Management Plan 2007』Roads andTraffic Authority(RTA)3)『「棄民」植民地オーストラリア』オーストラリア研究第7号1996.1鈴木顕介4)『オーストラリア建国物語』リチャード・エバンズ/アレックス・ウエスト著内藤嘉昭訳2011年明石書店5)『シドニー・ハーバー・トンネルの沈埋函の外洋曳航』土木学会論文集No435斉藤尚武/山崎晶1991年<取材協力・資料提供>1)ARCADIS(Richard Barnes)2)Tomoko Namiki(通訳)<図・写真提供>図1参考資料2P40上、写真1、4有賀圭司写真2、3、5ARCADIS写真6油谷百百子写真7塚本敏行写真8茂木道夫写真9大角直写真10箕輪知佳Civil Engineering Consultant VOL.276 July 2017043