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図1好文亭四季模様之図(大洗町幕末と明治の博物館寄託)写真1上空から臨む千波湖のか」等の認識を深め、これらを持って「現在の日本はどうあるべきか」「水戸藩の政治はどうなっているのか」「藩の財政はどうか」と考えた結果、これらに対し根本的にメスを入れる必要があると結論を出した。1837(天保8)年には『経界の義』(全領検地)、『土着の義』(藩士の土着)、『学校の義』(藩校弘道館及び郷校建設)、『総交代の義』(江戸定府制の廃止)を掲げ、水野忠邦の天保の改革に示唆を与えたと言われている。このほかにおいとりがりも、『追鳥狩』と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に穀物蔵の設置をするなどした。さらに国民皆兵路線を唱えて西洋近代兵器の国産化を推進し、蝦夷地開拓や大船の建造も幕府に提言している。強い信念で改革を断行していく中での政策の一つが偕楽園の建設だった。幕末期に人材の少なかった徳川家では唯一のカリスマ性と行動力を持ち合わせた人物であった斉昭は、なぜ水戸の地に偕楽園を造ったのだろうか。■常盤村に偕楽園を造った理由偕楽園建設の計画自体は、斉昭が藩主として初めて水戸に来た1833(天保4)年に考えられた。建設地の決め手は、斉昭が領地巡回をした際に千波湖や筑波山、大洗の海を遠望できる領内随一の景勝地をここに見出したからである。しかし、この年は大飢饉のために計画が進まず、翌年にその準備の第一段階として神崎の地(水戸市)に数多くの梅樹を植えさせた。そして1841(天保12)年4月から造園工事を行い、翌年7月1日に開園したのである。偕楽園の名称は『孟子』にある「古(いにしえ)の人は民と偕(とも)に楽しむ、故(ゆえ)に能(よ)く楽しむなり」から取ったものであり、「領民と偕に楽しむ場にしたい」という意味が込められているという。■伏せられた軍事目的一般的に言われている偕楽園創建の目的は3つある。1質素倹約の時代だった当時は、江戸でも水戸でも三味線を弾くことさえ禁止されていた。酒宴も禁止で、衣類は木綿が基本とされていた。しかし、それでは臣下も民も楽しみがなくなってしまう。せめて「庭園の花を眺める楽しみは与えるべきだろう」という妥協の姿勢から偕楽園が生まれた。2勉学や修行の場である藩校弘道館に対をなす一体の施設として、休息の場とする偕楽園が創建された。3城中で火災等が起こった時のための避難場所として位置づけられた。しかし、当時斉昭が太平洋上に現れる外国船に対して日本領土侵略の国家的危惧を感じていたことなどから、偕楽園創建は国防のための軍事目的が真の理由であったともいわれている。そこには二つ目的があったが、幕府の法度にゆうゆうそんよう抵触するため、民と共に楽しむ優游存養を強調した『偕楽園記』を発表し、その目的は伏せられていた。1偕楽園の中心的建物である好文亭の3階からは太平洋も臨めることから、戦の際の海岸防御の一環として、城塞の守衛の堅固化を目的として建設された。2梅は花を楽しむことが目的ではなく、その実を戦や飢餓の際の非常食とするために梅の自給自足を図った。■もう一つの家、好文亭斉昭の別邸でもあった好文亭の設計は、側用人の小山田軍平や町奉公の原魯斎らによって設計された。斉昭自身の考えも加えられながら、設計図は斉昭の自筆で描かれた。植栽はその道に詳しい長尾佐太夫景徳が采配を振るった。ここは斉昭の別邸としてだけでなく、文人墨客や家臣、領地の人々を集めて詩歌の宴を催したり、養老会の開催場所としても利用されていた。「好文」とは梅の異名で、晋の武帝の「学問に親しめば梅が咲き、学問を廃すれば開かなかった」という故事に基づく。当時、3階以上の建物建設には幕府の許可が必要だっCivil Engineering Consultant VOL.277 October 2017041