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Consultant278
けを生産していた川崎製鉄は1950(昭和25)年秋に、高炉を新設して、一貫製鉄メーカーに参入すると発表し、世間を驚かせた。鉄鋼の供給過剰を危ぶむ声も強かったが、高度経済成長の開始とともに、電機・自動車・造船・建築などの鉄鋼需要が急増し、生産は追い付かず、大幅な鉄鋼不足に陥った。経営者たちは必ずしも将来を見通せていたわけではなかったが、リスクを恐れなアントルプルヌールシップい企業家精神が大規模な投資を決断させたのである。復興への道のり1945年以降約10年間の戦後復興期のうち、1952(昭和27)年4月までの約7年間は、連合国軍(その大部分はアメリカ軍)の占領下にあった。いざ日本が経済復興に取りかかろうとした際に、まず直面したのは原料と機械の輸入途絶であった。海外取引は一切禁止され、GHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)の許可を得たわずかの貿易だけが許された。そもそも、外貨準備を失い、輸出商品もほとんど生産できない状況では、禁止措置がなくても、輸入は困難だったであろう。アメリカの占領地経済援助(ガリオア援助)も、1948(昭和23)年までは食糧や医薬品などの消費物資だけであり、生産の再開には役立たなかった。残された経済復興の唯一の道は、国内資源を最大限に活用することであった。傾斜生産方式(1946~1948年)として知られる経済復興計画は、有力な国内資源であった石炭をテコとする経済再建の方策である。石炭を増産して鉄鋼設備を稼働させ、生産された鉄鋼を炭鉱に投入して、さらに石炭の増産を図る計画である。石炭の増産は、労働者の大量動員による人海戦術で行った。敗戦により植民地を失った「資源小国」日本の人々を、GHQ/SCAP天然資源局技術顧問のエドワード・アッカーマンは、「日本は決して資源が乏しい国ではない、近代科学の方法を活用し、組織的な開発体制を組めば、将来は明るい」と励ました。その結果、1947(昭和22)年末に資源委員会が設置された。さまざまな国内資源開発計画が作成されたなかで、石炭に次いで注目された資源は日本に豊富に存在する水であった。ニューディールの象徴的存在であるアメリカのTVA(テネシー川流域開発公社)をモデルに、経済安定本部は水資源開発を核とする地域総合開発構想を練った。とくに京浜地帯の電力源としての只見川の開発構想に注目が集まった。また、未開拓の資源が眠り、人口収容能力がある日本のフロンティアとして北海道が脚光を浴びた。1950年に北海道開発庁が設置され、農林水産業の開発に力写真1佐久間ダム点を置き、1,000万人への人口増大を目標とする『北海道総合開発第1次5カ年計画』(1952~1956年度)がスタートした。1950年6月に勃発した朝鮮戦争は、特需(国連軍の軍需調達)ブームを巻き起こし、企業を立ち直らせたが、一時的なブームを持続的発展に繋げるためには、日本経済の基盤の強化が不可欠であった。1950年代前半には、石炭に代わって、電力が産業の基盤として重視され、水力発電ダム建設が推進された。この時期を代表するのが、天竜川流域の佐久間ダム(1953年着工、1956年竣工)である。それまでになかった100mを超える高さ156mのダムが、パワーショベルやダンプトラック等の輸入新鋭機材を投入し、アメリカからの技術協力と借款を受けて3年余の短期間で完成したことは、アメリカの技術・文明の輝かしさを国民に強く印象付けた。日本一のダムは、小学校の教科書に取り上げられ、『佐久間ダム』として映画化され、観光名所になった。エネルギー開発と並んで、政府が重点的に取り組んだのは開墾・開拓であった。焼け野原となった都会には、外地からの引揚者600万人を収容する余地は乏しかった。そこで政府は1945(昭和20)年秋に、失業問題と食糧危機を一挙に解決する方策として、緊急開拓事業を立Civil Engineering Consultant VOL.278 January 2018011