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写真2新宿駅附近のバラック(1954年2月18日)写真3練馬グラントハイツでの日米合同植樹祭(1955年4月14日)ち上げた。この政策は成功を収めなかったが、引き続き1950年以降、『食料増産5カ年計画』(1952年策定)のもとで、愛知用水、八郎潟干拓、石狩平野篠津干拓、根釧原野パイロットファームなどの干拓・開墾事業が計画された。いずれも完成は1960(昭和35)年以降である。後回しにされた産業インフラ・生活インフラ工業の近代化投資が進むなかで、立ち遅れたのは道路・港湾などの産業インフラと、住宅・上下水道などの生活インフラであった。戦争直後の住宅難は深刻であった。戦災によって住宅210万戸が焼失したうえに、疎開者や引揚者が都市に流入したため、全国の住宅不足戸数は420万戸に達した。1948年になってもバラック住まいは解消されておらず、1人当りの畳数は東京では2.7畳にすぎなかった。そうした状況をよそに、GHQ/SCAPは1946(昭和21)年3月に占領軍家族住宅(DP)2万戸の建設命令を出し、真新しい洋館が立ち並ぶアメリカ風の街が、日本の大都市に出現した。その代表的事例は、東京代々木のワシントンハイツや練馬のグラントハ100,000イツであった。建設費は、日本政府の予算のうち駐留軍の経費のために設80,000けられた「終戦処理費」から支出され60,000た。終戦処理費は1946(昭和21)年度40,000と1947年度には一般会計予算の3割にも及び、日本の復興、とりわけ公共20,000事業の復興の妨げとなった。0ただし、アメリカ軍の事業は、倒産の危機に瀕していた日本の建設会社にとっては、干天の慈雨であった。ま(千m 2)120,000図2建築着工床面積の推移た、1949(昭和24)年にアメリカ軍が沖縄基地工事のため、日本本土の大手建設会社の協力を求めたことも、建設業復興の足掛かりとなった。1948年には国民は食糧危機の状態を脱し、1951~1952年頃には着るものに不自由しなくなった。しかし、住宅不足の解消という課題は、戦後10年を通じて解決されていなかった。住宅金融公庫は1950年に設立されていたが、新たに住宅を取得した者はおもに中間層であり、1955年においても、住宅難世帯は全世帯の15%、労働者世帯の27%に達した(建設省『住宅事業調査』1955年)。この年に政府は住宅不足の解消に本格的に取り組み始め、『住宅建設10カ年計画』(1955~1964年度)を策定した。1955年には日本住宅公団が設立され、翌年に最初の公団住宅が完成した。オフィスビルの建設も遅れ、1950年代を通じて建築着工面積の増加は、はかばかしくなかった(図2)。東京について言えば、『東京戦災復興都市計画』(1946年)、『首1950 1952 1954 1956 1958 1960 1962 1964(注)19 5 0年は4月~12月の合計個人会社・団体国・地方自治体012Civil Engineering Consultant VOL.278 January 2018