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Consultant278
都建設緊急5カ年計画』(1952~1956年)が立てられたものの、ほとんど画餅に終わった。1952年に戦後初のビル建設ブームが起き、新丸ビルや日活国際会館ビルが建設されたが、オフィスビル不足は深刻化する一方であった。政府が道路の整備に本腰を入れ始めたのも、1950年代後半であった。「日本の道路は信じがたいほど悪い」という言葉で有名な『ワトキンス報告書』(世界銀行借款の準備のための調査報告)が出されたのが1956(昭和31)年8月で、日本道路公団の発足は1956年の4月である。占領軍住宅の建設が、日本の公共事業を阻害する側面があったと指摘したが、占領軍の政策全体で見れば、むしろ日本の復興を支援する側面が強かったと言える。そもそも「公共事業費」という概念を日本に持ち込んだのはGHQ/SCAPであった(1946年度予算)。ガリオア援助物資の売却代金を積み立てた財政資金(「見返資金特別会計」)も、その一部が公共事業や国鉄、電話通信事業などの政府事業に向けられた。占領期の公共事業が低調であった根本的原因は、政府が貧しく、余裕がなかったことにある。公共事業費は、占領終結直後の1952~1953年に一時的に増加したが、1953~1954年写真4神田駅前飲食街の悪路(1954年2月1日)の外貨危機の際の財政緊縮で圧縮を余儀なくされ、右肩上がりに増加を続けるようになるのは1950年代末以降のことである(図3)。<図・写真提供>図1経済企画庁編『現代日本経済の展開』大蔵省印刷局、1976年、p.578より作成図2建設省「建築着工統計調査」より作成図3大蔵省財政史室編『昭和財政史-終戦から講和まで』第19巻、p.188、大蔵省財政史室編『昭和財政史-昭和27?48年度』第19巻、pp.102-105より作成写真1塚本敏行写真2、3、4東京都(億円)(%)8,00025.07,0006,0005,00020.015.04,0003,00010.02,0001,0000図3公共事業関係費の推移19461947194819491950195119521953195419551956公共事業関係費(左軸)195719581959196019611962196319641965公共事業関係費/一般会計歳出(右軸)(注)政府一般会計の公共関係事業費の合計5.00.0Civil Engineering Consultant VOL.278 January 2018013