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小限にとどめた。さらに、躯体用のコンクリートは従来請負人が現場で混練していたが、プラントで混練して現場に搬入打設することとし、生コンクリートも専門業者から一括購入して請負人に支給することにした。これは、都市の中での現場作業を少なくし、品質を確保する画期的な方式であり、すでに米国では一般化していた。こうして、工事期間2年8カ月、最初の工事区間6.4kmが完成し、1954(昭和29)年に丸ノ内線は開通した。開業当時、運賃は銀座線と同様の15円均一制とし、運行は3両編成で、朝夕混雑時は3分30秒間隔、昼間時は4分間隔であった。ちなみに、東京の地下鉄では銀座線とこの丸ノ内線のみ標準軌(1,435mm)で、第三軌条集電方式を採用している。写真1開削トンネルの上部コンクリート打設工事日池袋~神田間の建設計画が策定し、1951(昭和26)年4月に着工した。■第1期工事着手、そして開通第1期工事区間は、現況地形の高低差が大きく、鉄道としての縦断勾配を保つため、ほぼ独自の路線設定とした結果、用地取得面積が大きくなった。トンネル、切り通し、盛土、高架と極めて多種多様な構造物があり、茗荷谷と後楽園は地上駅となっている。なお、すべての区間が開削工法によって建設された。また、御茶ノ水~神田間の経路には2つの問題があった。1つ目は、国鉄(現JR)駅の南側に計画していた御茶ノ水駅は、道路の幅が狭く、施工が困難であること。2つ目は、神田駅の位置と東京駅に至る経路として、適当な道路がなかったことである。このため営団は、御茶ノ水駅の位置を神田川の左岸(北側)に移し、神田駅での国鉄及び銀座線との接続を断念し、御茶ノ水~東京間の経路を変えて、1952(昭和27)年11月、第1期工事区間を池袋~御茶ノ水間に変更したのである。こうそうか工事にあたり、鈴木清秀総裁の「いたずらに宏壮華れい麗を求めない」という方針により、第1期の工事は規模をなるべく小さく設定し、本線の線路敷が最小となる相対式ホームとし、ホーム長は当初計画どおり4両分に抑えた。また、土留め擁壁はコンクリートでなく、間知石積みとしたり、車庫線や留置線では50kg/mレールでなく30kg/mレールとするなどして、施設及び設備を必要最■最新車両300形の導入1952(昭和27)年8~10月にかけて、鈴木総裁は欧米の都市交通事情の視察を行った。主たる目的は、丸ノ内線の車両を世界的な水準のものにするため、海外の実情を調査研究することであった。施設関係を極力節約するとともに、鉄道の基本である安全確保と旅客サービスを重視し、当時として最新式の300形車両を生産し、斬新なデザインのものとなっている。300形車両は、木材などの可燃物の使用を極力避け、全鋼製として不燃化の努力をした。強度は水平方向が50t、垂直方向が140人の定員(1人60kgと仮定して8.4t)の2.5倍の荷重に耐えるものとし、この条件でできるだけ軽量化を図った。1,300mmの両開きとしたドアは、混雑時の乗降時間とドアの開閉時間を短縮させた。この300形車両は1995(平成7)年2月28日に本線での営業運転を終了した。廃車後、中野工場で保存展示されていた1号車は、2003年6月に地下鉄博物館がリニューアルオープンした際に、初代銀座線の1000形1001号車と並べて展示されている。また、その後に生産された車両は、廃車後、アルゼンチンのブエノスアイレス市の地下鉄で活躍している。■現在の丸ノ内線へその後丸ノ内線は、1956(昭和31)年3月に淡路町、7月に東京、1957(昭和32)年12月に西銀座、1958(昭和33)年10月に霞ヶ関まで開通。そして1959(昭和34)年3月、ついに新宿まで開通し、池袋~新宿間16.6km全線の営業を開始した。また、丸ノ内線の延長線として荻016Civil Engineering Consultant VOL.278 January 2018