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Consultant278
図2西海橋設計図歳の吉田巌を含む10名弱の若き技術者達に任された。なぜ、これだけのビッグプロジェクトにもかかわらず、経験の少ない若手技術者達に任されたのだろうか。■西彼杵半島と舟運昭和初期まで、西彼杵半島の主要な交通手段は舟であった。西彼杵半島の人々にとって、特に第二次世界大戦時に軍港として栄えていた佐世保市や炭鉱の町として栄えていた大島へ行くためには、舟の利用が欠かせないものであった。若い男性は例外なく舟を漕ぐ事ができ、西瓜を売りに行くための「西瓜舟」や、戦中戦後の肥料不足を補うための「コヤシ舟」など、大島や佐世保への舟が頻繁に往来していた。しかし、自動車が急速に普及し、西彼杵半島を一周する道路整備が進められていく中で、地域住民から伊ノ浦瀬戸への架橋を望む声は徐々に高まっていった。西彼杵半島と佐世保市がつながることは、長年の悲願であった。■プロジェクトの始まりと資金調達西海橋架橋のプロジェクトは、地域住民からの強い要望を受けた22の町村長が集まって協議し、県に要望したことに始まる。中でも当時県会議員であった大串村出身の大串盛多は、強い情熱を持って西海橋架橋運動を展開していた。1940(昭和15)年、長崎県は県民の要望に応え、県営道路改修継続事業として西海橋架設費を追加決議し、実地調査に着手した。戦時中であったために、事業は一時中断す写真2突桁式吊出し工法による架設ることもあったが、1950(昭和25)年、対日援助見返資金が本工事に特別支出されることが決まり、着工することとなった。しかし翌年、その見返資金が打ち切りとなってしまい、県施工の国庫補助事業として続行したとはいえ、財源がなく厳しい状写真1 西海橋公園にある況であった。「大串盛多翁之像」そのような状況のなかの1952(昭和27)年、『道路整備特別措置法』によって、本格的な有料道路制度が定められた。西海橋はこの制度を利用し、全国唯一の県道橋の国直轄事業として4年の計画施行が決まった。また必要となる財源は、同時に成立した『特定道路整備事業特別会計法』によって確保されることになった。この財源は、郵便貯金等を原資とする資金運用部資金からの借り入れであり、1956写真3アーチの接合Civil Engineering Consultant VOL.278 January 2018019