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写真4西海橋竣工式(昭和31)年の『日本道路公団法』成立までの間に、国の直轄事業8カ所、地方公共団体事業27カ所の建設が進められた。その主な事業は、西海橋のほかに関門トンネル、笹子トンネル、戸塚道路、京葉道路などの建設や、若戸大橋の調査があった。さらに道路整備の財源として、1953(昭和28)年に『道路整備費の財源等に関する臨時措置法』が制定され、揮発油税を道路整備への目的税とすることが実現した。この二つの画期的な制度は、西海橋だけでなく日本の多くの道路整備にとって、大きな推進力となった。■技術者の選定西海橋が建設省直轄工事として始められた1952年、工事に関わる職員はほとんどが県からの出向で、工事事務所長も県職員の中島保男であった。翌年の見返資金打ち切りによって、一時中止となっていた工事が再開された時は、建設省道路局橋梁担当として勤務していた村上永一が新たな所長となった。この若手技術者が所長として建設責任者となったのは、内務省土木試験所勤務していた経験や、橋梁についての研究が評価されたものと思われる。そして1953年4月、28歳であった吉田巌が建設省に入省し、西海橋の設計を任されることになった。設計は主にこの村上や吉田を含む若手技術者6名で行われた。実は吉田は東京大学工学部の卒業論文において「伊ノ浦瀬戸における無橋脚のアーチ橋梁の高度な応力計算」をまとめていたのである。その論文は西海橋建設を進めていた建設省技術者たちに評価され、建設省職員の先輩たちから口説き落されて、鉄道会社を辞退して入省させられていた。後年、吉田は本州四国連絡橋の架橋に携わるなど、日本を代表する橋梁技術者となった。設計開始時にはすでに、材料計算も含めて1953年8月15日には完了させることが決まっていた。当時はまだ、建設コンサルタント会社というものがなく、すべて職員が設計を行っていた。アーチの形を決定する際には、大きな紙にアーチを描き、技術者チームの意見をもとに村上所長が決定したという。数名の大学院生が設計を手伝いながら、なんとか期日までに完成した。手回しの計算機を用いて、たったの4カ月半ですべての設計を完了したことは、吉田でさえも「期日の8月15日によくも間に合ったと、今振り返っても不思議なくらいである」と記述している。■世界初の新工法への挑戦西海橋架橋地点の伊ノ浦瀬戸の流れは速く、大潮時には潮流が毎秒約5mにも及び、水深が40mと深いため、海中に橋脚を設けることは不可能だ。また、対岸までは200mあり、両岸は45度近い急斜面であることから、支間長を210m以上とする必要があった。一般的に長支間に適している吊橋は、ケーブル架設や耐風安全性から当時の技術では困難と判断されていた。その結果、強風下でも確実に工事が進められる鋼アーチ橋に決定したのである。また、この地域の船舶の輸送条件よりあまり重いものが運べないため、一つの輸送部材を20t以下にする必要性から、比較的小規模な部材を組合せてアーチを造るブレースドリブ形式が採用されている。架設に際しては、両岸から斜めのケーブルによって吊り上げたアーチ部材を組み立て、最後に両岸から伸びた半アーチを中央部で閉合させる突桁式吊出し工法(Cantilever Tieback Erection)が用いられた。これら一連の架設工事は世界最初の試みであり、数種の新工法は、戦後日本の建設技術の水準を高めることにも貢献した。■日本初の有料道路橋西海橋は日本で最初の有料道路橋である。そのため、交通量を予測し、料金を設定する方法について経験はなく、手探りで進められた。戦後間もない時期で経済統計もなかったため、交通量を予測するにあたっては、町村役場、農業協同組合、漁業組合での聞き取り調査を行った。西彼杵半島から外へ出荷されるものは少なく、経済活動は貧弱であったため、前後の道路整備を進めて、長崎市や佐世保市とつなぎ地域の活性化を図る必要があった。また当時は、借り入れた建設費用を償還する計算モデルもなく、手回し計算機で繰り返し演算を行って通行020Civil Engineering Consultant VOL.278 January 2018