ブックタイトルConsultant278
- ページ
- 25/68
このページは Consultant278 の電子ブックに掲載されている25ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは Consultant278 の電子ブックに掲載されている25ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
Consultant278
図2当初計画図(重力式)図3変更計画図(アーチ式)写真1上椎葉ダム正面しかし、上椎葉ダムは、当初はアーチ式ではなく、重力式ダムとして計画されていたのだ。なぜ、上椎葉ダムは重力式からアーチ式へと変更されたのだろうか。■宮崎県の電力開発競争とダム計画明治の終わりから大正初期の電力需要の拡大に伴い、九州地域でも民間事業者による電力開発が急増していった。九州では、先行開業した東京や大阪等の本州電力市場から離れていたことと、炭鉱業が発達していたことにより、他地域と比較して石炭火力による発電比率が高い特徴があった。しかし、その後の電力需要の拡大とともに、効率良く安定的に大量の発電が可能となる水力発電の開発に力が入れられることとなる。中でも宮崎県は九州随一の水力電源のポテンシャルを持つ地とされ、大淀川・一ツ瀬川・小丸川・耳川・五ヶ瀬川等の県下の大河川は、豊富な水量を誇る未開発地域として電力事業を手掛ける大手資本家によりそれらの水利権を巡る熾烈な争いが展開された。この状況を見兼ねた県は競合する大手資本家を説得し、共同出資による新会社を設立させ、県下の電力事業を一手に担わせようとした。しかし、県民の権利を営利会社に独占させるものとして県外送電反対運動が起こった。そのため「県外への送電には事業者が県に公納金を納める」ということで決着し、1925(大正14)年に九州水力・九州鉄道・電気化学工業(三井系)・住友の共同出資による九州送電株式会社が設立され、県内における発電及び送電を独占することとなった。その後、やますばるつかばるいわやど耳川水系に関しては、西郷・山須原・塚原・岩屋戸の4つの発電所を下流から順次開発していった。最上流に位置する上椎葉ダムは、当初計画の1938(昭和13)年竣工の塚原、1942(昭和17)年竣工の岩屋戸の工事が進められている時期に、高さ133m、出力8万kwの耳川水系で最大規模の重力式ダムとして新たに計画された。■アーチ式ダムへの転換当初、九州送電株式会社は上椎葉ダムを重力式として計画していた。その計画を引き継いだ1939(昭和14)年設立の特殊法人日本発送電株式会社は、戦後の1946(昭和21)年、現地に調査所を開設し建設に向けた本格的な調査を開始した。1951(昭和26)年、事業主体はさらに九州電力株式会社へと引き継がれ調査検討が進められた。これらの調査においては、海外技術顧問団(OCI:Overseas Consultants Incorporated)の助言を仰ぐこととなった。OCIは1947(昭和22)年にマッカーサー元帥に招かれたアメリカの技術者集団であり、上椎葉ダム以外にも戦後復興期の日本の電力開発事業において助言や指導を行う顧問的立場として、深く関わっていた。Civil Engineering Consultant VOL.278 January 2018023