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写真4索道による資材の運搬写真5日向椎葉湖連絡道路である耳川道路は、その大部分が山間部で屈曲し橋梁や暗渠も多く、豪雨や暴風による崩壊も頻発して、資材を運搬するうえで極めて困難な状況にあった。このため、ダム工事に必要な約50万m 3のコンクリート等の資材を運搬するにあたって、海に近い平野部に位置する富高駅付近に輸送基地として資材倉庫を設け、ダム工事現場までの全長約57.5kmに索道を整備し、道路による運搬と併用した。ダムが完成に近づいた1954(昭和29)年9月、九州を襲った台風12号により日降水量700mmを超える豪雨にみまわれ、濁流がダム堤体を超えて下流の発電施設等に流入し、多くの犠牲者を出すとともに施設は壊滅状態となった。幸いにもダム堤体は無事で、その後の懸命な復旧作業を経て、翌年5月、総工費140億円(現在の金額で約640億円)を掛けた大プロジェクトはついに完成を迎える。この事業費の中には、GHQ(連合国軍最高司令部)の承認を受けて採択された対日援助見返り資金が含まれている。■悲しい過去とともに受け継がれる技術上椎葉ダム建設によって水没した面積は約400haに及び、家屋73戸、尾八重と椎葉の2つの小学校、椎葉中学校が移転している。建設時には労働者だけでも8,000人が暮らしていた。ひっそりとした山里にパチンコ店、映画館、飲食店、銀行、質屋等が並ぶ「椎葉銀座」が誕生していた。ダムによって形成された人造湖は、小説家吉川英治によって「日向椎葉湖」と命名された。一方、ダム建設の華々しい功績の陰には105名の尊い命が犠牲となっている。九州電力等の事業者はダム完成の翌年となる1956(昭和31)年、ダム湖を見下ろす高台に「女神像公園」を整備し、供養のため慰霊碑を建てている。写真6女神像公園の慰霊碑上椎葉ダムで得られた知見や技術は、その後の日本におけるアーチ式ダムの普及に大きな影響を及ぼした。1958(昭和32)年に完成した宮城県の鳴子ダムは、上椎葉ダムの経験を活かして初めて日本人だけで造られたアーチ式ダムであり、1963(昭和38)年に完成した日本最大級の黒部ダムの建設でも活かされている。周囲を山々に囲まれた静かな椎葉村の渓谷に聳え立つ上椎葉ダム。日本の大規模アーチ式ダムの歴史はここから始まったのである。悠然と佇むその姿には、いくつもの苦難を乗り越えた先駆者達の思いが込められている。<参考資料>1)『アーチダム上椎葉ダムの計画と施工』九州電力株式会社土木部1957年丸善2)『弧線のダム上椎葉ダム建設記録』今泉敏迪1962年学風社3)『上椎葉アーチダム工事誌』鹿島建設株式会社1956年鹿島建設4)『宮崎の水力物語』九州電力株式会社5)『宮崎の水力物語(資料編)』九州電力株式会社6)『記念写真帖』九州電力株式会社上椎葉水力発電所7)『電力土木』1955年1月発電水力協会8)『電力土木』1956年9月発電水力協会9)「九州電力ホームページ」(http://www.kyuden.co.jp/company_pamphlet_book_plant_hydro_kamishiiba.html)<取材協力・資料提供>1)九州電力株式会社宮崎支社<図・写真提供>図1、2、3参考資料1よりP22上谷口史記写真1塚本敏行写真2参考資料4より写真3、4九州電力株式会社写真5山口佳織写真6有賀圭司Civil Engineering Consultant VOL.278 January 2018025