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Consultant278
Once the largest in the Orient: Ashio sand-trap dam東洋一の規模を誇った「足尾砂防堰堤」栃木県日光市特集土木遺産XV戦後復興を支えた土木Special Features / Civil Engineering Heritage XV足尾砂防堰堤大日本コンサルタント株式会社/業務統括部/人事室山上英之(会誌編集専門委員)YAMAGAMI Hideyuki■三つの川の合流点群馬県桐生市から栃木県日光市を結ぶ「わたらせ渓まとう谷鐵道」の終点間藤駅から徒歩で約1時間北上すると、生い茂った山の正面に忽然と巨大な堰堤が現れる。山々の緑と融合したその姿は壮大で圧倒される。この足尾砂防堰堤は、栃木県と群馬県の境界にある標高すかいさんにたもと2,144mの皇海山に端を発する渡良瀬川上流の仁田元くぞう川、松木川、久蔵川の三川が合流する直下にある。「三川合流ダム」「足尾ダム」とも呼ばれ、1955(昭和30)年に完成し、高さ39m、堰堤長204.4m、貯砂量は500万m 3で東京ドーム4杯分の土砂を貯めることができる日本で最大規模の砂防堰堤である。なぜ終戦直後、この地に大規模な砂防堰堤が造られたのであろうか。■足尾銅山の公害足尾砂防堰堤のある栃木県旧足尾町(現在は日光市)の歴史は足尾銅山の歴史でもある。1610(慶長15)年に二人の山師が銅の露頭を発見したことが銅山の始まりといわれている。その後、幕府の直轄となり本格的な開発が進められ、幕府御用銅として江戸城、上野輪王寺、芝増上寺、日光東照宮の銅瓦などに使用された。1876(明治9)年に足尾銅山の鉱業権が古河市兵衛の手に渡ると、探鉱技術の進歩によって次々と大鉱脈が発見された。産銅量が増加し、鉱石から銅を取り出す製錬と坑道整備のために周辺の山から多くの木材が伐採された。政府は山林伐採を抑えるための制度や管理体制の確立を目指したが、「富国強兵」「殖産興業」の政策が進められる中で消極的となっていた。伐採は農商務省管理の下、栃木県が管理することとなったが黙認され、また銅の精錬過程で発生する亜硫酸ガスが大量に排出されたことで山の表土が酸性土壌となり、植物が枯れ果ててしまった。加えて冬は乾いた季節風が吹き、土壌が凍結するうえ、脆弱な地質で急026Civil Engineering Consultant VOL.278 January 2018