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写真1足尾銅山製錬所斜面であったことも起因し、足尾の山は草木の育たないはげ山になった。足尾銅山は「日本の公害の原点」と呼ばれ、足尾地区では少々の雨でも土石流が度々発生し、大きな被害をもたらすこととなった。写真2大畑沢の砂防堰堤群■戦前の足尾砂防事業その後も足尾の山は、度重なる伐採や山火事などの発生で荒廃の一途をたどった。1892(明治25)年には、足尾銅山鉱毒問題の県常置委員会委員であった加藤昇一郎の『足尾銅山に関する調査意見書』により渡良瀬川の治水、水源保護に関する予防工事、植林等の必要性が説かれ、足尾銅山鉱毒問題に関して注目が高くなっていった。1897(明治30)年には、河川法に続いて砂防法及び森林法が制定され、農商務省技師和田国次郎により初めてこの地域の荒廃山地に対する砂防の必要性が提唱された。農商務省は1906(明治39)年より足尾国有林復旧事業を開始し、造林および治山工事を1918(大正7)年まで実施した。しかしこれらの対策は思ったように効果が上がらず、土砂の流出は依然激しいままであった。1925(大正14)年、渡良瀬川沿岸の住民より水源涵かばまこと養の請願が内務大臣に出された。内務省は技師蒲孚による『足尾砂防工事における現況調査』を受けて、1927(昭和2)年に渡良瀬川流域の砂防全体計画書を作成し、内務大臣に上申した。その計画書によると、総工費は800万円、ダム94基、護岸延長610m、床固延長550mを整備して土砂の流出を防止する内容であった。ダムの一つとして松木川、仁田元川、久蔵川の三川合流点に高さ38m、延長180m、貯砂量500万m 3の大型の足尾砂防堰堤が計画された。2年後の1929(昭和4)年に写真3足尾砂防堰堤の工事前写真4工事中の足尾砂防堰堤第1期計画が上申されたが着工には至らなかった。1934(昭和9)年9月の室戸台風を契機に、ようやく1937(昭和12)年に内務省東京土木出張所足尾砂防工場が開設され、内務省直轄事業として砂防工事がスタートした。しかし戦争への道をひたすら進んでいた時代であったうえ、多額の経費と時間を要するため、またもや足尾砂防堰堤の着工は見送られ、第二次世界大戦の勃発により足尾の砂防計画は縮小休止状態となった。■度重なる台風被害終戦後まもない1947(昭和22)年9月、カスリーン台風が関東地方に上陸し記録的な豪雨をもたらした。山間部では大規模な土石流が起こり、渡良瀬川やその支川の平野部では堤防の越水や決壊が発生し、多くの人命が失われ、家屋や田畑が濁流にのみ込まれた。足尾地区では385mm(9月13日から15日)の降雨により山地が著しく崩壊し、大量の土砂が流出した。後年の渡良瀬川砂防工事事務所の調査によると、渡良瀬川へ流れ込んだ土砂は被害の大きかった桐生市赤岩橋で約570Civil Engineering Consultant VOL.278 January 2018027