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学を専攻、卒業後は内務省に入った。内務省時代は琵琶湖の利水計画や淀川低水路計画などに携わり、国内各地の主要河川事業に功績を遺した。1938(昭和13)年に日中戦争下の中国大陸に渡り、上海や南京などの戦災地の復興を指揮し、翌年に名古屋土木出張所長として木曽いまわたり三川の治水、今渡ダム調整などの河川工事に関わった後、1942(昭和17)年に再び中国に渡り、黄河大洪水の復旧や北京西郊の新都市計画の立案を担当した。終戦2カ月後の10月10日、佐藤正俊名古屋市長の強い希望により、かつて内務省の名古屋土木出張所長を務めていた田淵が技監として招かれ、全面的に市の戦災復興を任されることとなった。技監という役職は着任の際に設けられたもので、統一的な復興事業を進めるため、水道や交通なども含めた関連部局を統括する技術助役ともいうべき役割であった。名古屋駅■復興計画の始まり復興に当たって最初に「どういう事業手法で実施するのか」が討議された。1923(大正12)年の関東大震災による災害復興を土地区画整理事業で行った事例があり、名古屋市でも土地区画整理事業に豊富な経験があることから、区画整理を主体とする方針が立てられた。なお、国の復興支援としては1945(昭和20)年12月に『戦災地復興計画基本方針』が閣議決定されたが、名古屋市はそれより3カ月も前の9月に市再建に関する決議を行い、翌月には市復興調査会の設置、そして12月6日に「大中京再建の構想」を策定し、復興の準備を進めていた。そして『戦災地復興計画基本方針』が閣議決定されたのを受けて、復興計画をより具体化し体系づけるために『名古屋市復興計画の基本』を決定した。■「田淵構想」名古屋市を代表する戦後の都市計画といえば、100m道路と大規模墓地移転である。「田淵構想」とも称されるこの復興計画は、当時としては想像を超えた計画であったこともあり反発も大きかったが、今振り返ると単なる復旧にとどまらず、未来の名古屋のまちづくりを見すえた計画として、今日の名古屋の発展の基礎となっている。図1戦災消失地区と戦災復興土地区画整理事業施行区域■2本の100m道路終戦直後、政府は戦災復興院を設立し、全国各都市に戦災復興の号令をかけた。しかし4年後、日本経済の自立と安定のために実施された財政金写真2田淵寿郎融引き締め政策「ドッジ・ライン」により、国庫補助は削減されることになった。100m道路は当初7都市が計画していたが、結果的に名古屋市の2本と広島市の1本が実現したにすぎなかった。名古屋市は計画立案がきわめて速く、事業手法を土地区画整理事業と想定し、終戦直後から測量器具を大量に調達し、早期に仮換地を指定して建築制限を行った。また、戦争中に実施した帯状建物疎開空地を地権者に返還せず、広幅員街路の用地にあてた。名古屋市の100m道路は、平均幅員112mの久屋大通と、平均幅員100mの若宮大通である。主に防災上のCivil Engineering Consultant VOL.278 January 2018031