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Consultant278
写真3 1954年のテレビ塔周辺観点から計画された2本の道路は、名古屋の中心部で交差し、市街地を4分割することで災害時の延焼等の被害拡大を防ぐことができる。また広い道路は、災害時の避難地や復旧工事の拠点になる。現在は、防災空間の他に公共公用施設収容空間(テレビ塔、地下鉄、駐車場等)、都市公園、雨水貯留施設等があり、戦後名古屋のシンボルとして市民の憩いの場となっている。■点在する墓地を一カ所に名古屋市は戦災からの復興を土地区画整理事業で行う事をいち早く決定したが、区画整理を実施しようとした約4,400haの中には約300の寺院があった。各寺院には墓地も付随していたため、道路や公園等の公共施設の設計や造成に支障をきたし、換地計画の障害となる恐れがあった。また100m道路をはじめとする街路計画が進められており、土地の確保は重要な課題となった。各地に点在する寺院や墓地を一カ所に移転させるというアイデアは、復興土地区画整理事業執行上の障害の除去、新しいイメージの墓地の創造の他、地域の機能と美観の向上を図ることができるなどの効果があった。一方、寺院側も空襲被害を受けたところが多く、檀徒の離散などにより墓地は荒れ放題となっており、どう立て直すのかが大きな問題であった。墓地移転に関しては反対意見も多く、紆余曲折があったものの、結果的に約19万基もの墓が現在の平和公園に移転することになった。平和公園は旧陸軍の演習場で、戦前から大部分が国有地であったが、終戦後は愛知県知事が管理していた。戦後の深刻な食糧不足を受けて、この土地に関心があった農地営団は、開墾して食料を生産することを目的として名古屋市よりも先に使用申請をし、概ね了承されていた。しかしこの土地の確保が、墓地の集団移転や復興土地区画整理事業の成否にかかわる大問題であるとして、名古屋市は土地区画整理事業の現状、墓地移転の重要性、寺院との話し合いの進展等を説明し、知事の翻意を促した。現地を視察した知事は「当面の食糧政策よりも将来のまちづくりが重要である」と決断し、農地営団の申請を退けて墓地の集団移転地としての使用を認めた。墓地の移転は1947(昭和22)年から始まり、1957(昭和32)年11月には寺院数278、墓地面積18万1,983m 2、墓碑数18万7,405基の移転が完了した。移転された墓地には尾張徳川家代々の墓も含まれていた。現在、市内有数の桜の名所となり、緑に包まれた墓地公園として市民に親しまれている。写真4平和公園の墓地写真5 1957年頃の平和公園032Civil Engineering Consultant VOL.278 January 2018