ブックタイトルConsultant278

ページ
35/68

このページは Consultant278 の電子ブックに掲載されている35ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

Consultant278

ブックを読む

Flash版でブックを開く

このブックはこの環境からは閲覧できません。

概要

Consultant278

■公園・鉄道・地下街名古屋市の戦災復興計画では、他にも高速度鉄道(地下鉄)の計画や公園整備など、幅広い事業が実施された。公園整備計画では、小学校隣接地に1学区1公園を目標としたが、学校用地の確保が優先され、全て実現することはできなかった。しかし土地区画整理事業の標準とされる3%を超える面積の公園整備が行われた。また、公園の他に「どんぐりひろば」といわれる子供の遊び場の確保に努め、379カ所10.4haを整備した。高速度鉄道は当初、高架や掘割を積極的に取り入れるほか、国鉄(現在のJR)や私鉄の郊外路線と相互乗り入れを前提とするなど意欲的な計画であったが、制約条件や世論等から実際には構造は地下構造となり、相互乗り入れも実現することはなかった。1967(昭和42)年に地下鉄東山線(名古屋~栄間)2.4kmが開通し、名古屋初の地下街「ナゴヤ地下街」も開業した。この地下街は、戦後多発した交通渋滞による駅前の事故を減少させるため、地下に連絡路を設け、交通渋滞を緩和させることを目的に造られた。地下連絡路は「薄暗く狭いというイメージ」であったため、商店街として運営することでそのイメージを払拭し、さらにはその事業費を店舗からの出店金で賄って事業を成立させた。写真6 建設当時の雰囲気が漂う栄駅通路■大都市へと発展終戦後、日本中が混乱している中、未来に向けて壮大な構想を立て、復興事業を完成させた名古屋市の成功のカギは、関東大震災の復興手法に習い、市民や市会議員が揃って「戦後一番に取り組むべきことは土地区画整理事業である」と考え、いち早く行動に移した先見性のある決断力であったと言える。また、土地区画整理事業に手慣れていたということも功を奏し、他都市がドッジ・ラインによる復興事業費の削減で事業縮小を余儀なくされた際、既に計画の90%を履行していた名古屋市は、当初の計画から大きな変更なく事業を進めることができた。それは「計画ができても実行しなくては何の意味もない」という原則を実行に移したからであり、わずか2年で復興事業を止められ写真7現在の「ナゴヤ地下街」写真8ミッドランドスクエアから望む現在の名古屋ないところまで進めていたスピードが、国の補助の大きな削減を招かずに名古屋市の基本的な復興事業を完成に至らせた大きな要因だった。現在もただ一人の名古屋市名誉市民である田淵寿郎。彼の大胆な計画と決断力、そして強いリーダーシップが現在の大都市名古屋へとつながる戦後の都市計画を成功へと導いたのだ。<参考資料>1)『旧軍用地と戦後復興』今村洋一2017年中央公論美術出版2)『都市計画家石川栄耀』中島直人、西成典久、初田香成、佐野浩祥、津々見崇2009年鹿島出版会3)『土木技師田淵寿郎の生涯』重網伯明2010年あるむ4)『名古屋都市計画史』財団法人名古屋都市センター1999年5)『戦災復興誌』名古屋市計画局1984年6)『復興土地区画整理事業のあらまし』名古屋市計画局1991年<取材協力・資料提供>1)公益財団法人名古屋まちづくり公社名古屋都市センター<図・写真提供>P30上、写真7佐々木勝図1、写真1文献6より写真2、5文献4より写真3名古屋都市センター写真4惣慶裕幸写真6塚本敏行写真8熊井彩乃Civil Engineering Consultant VOL.278 January 2018033