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地を対照的に用いて、その縫い目の縁取りは、ふせぬいペルシャ製のモールで伏繍がほどこされ、裏地には中国製の緑地菊唐草文様の緞子をつけている。まさに南蛮と中国を混交した衣装である。この緋色は、それまで日本人が眼にしたことしょうじょうひのない猩々緋というスペイン製の羅紗であっにっぽえんじた。『日葡辞書』には「臙脂色または深紅色の織物」とある。猩々とは中国における想像上の霊獣で、その血で染めた色という珍説もあるが、実際には虫から採った染料で染めている。臙脂虫の一種で、地中海あたりに生育する樫の木に付くケルメスという虫で染めたといわれている。ただしスペインはこのときすでに中南米に進出して、そこにあるもうひとつの臙脂虫、サボテンにつくコチニールを自国へ運んでおり、これで染めた可能性もある。りんずその他、胴服の類では、表は真っ白の綸子に裏は真赤な紅花染の無地、襟には紅、緑、黄の三色の色糸で織られた唐織を配したものなどもあり、まことに多彩な衣装の持ち主である。謙信がどうしてこのような衣装を持ち得たのかには、多少の疑問がのこる。私はこの上杉家に伝わる衣装類は、全てが謙信のものではなく、いくつかはその養子上杉景勝の所用ではないかと推測している。時代が前後するが、天正15(1587)年、大坂城において秀吉と接見した景勝は「白銀五百枚と越後布三百反を贈った」とある。越後布とは越後名産の上質の麻布であろう。それに応えて秀吉は宴席を設け、自ら所用する胴服を贈って親しみの情をあらわしたという記録があるからである。さらに桃山時代になって一段と興隆した京都の高級な小袖屋や呉服商は、公家や金持ちの町方、そして京都に入洛する武将たちの注文だけでなく、特別の許可をもらっては遠く越後、甲府、駿府など有力武士が城を築く街へ出掛けて、武具甲冑とともに衣装の注文を受けてきていた。彼らの手で、遠隔の地に運ばれたものもあったと考えてよいだろう。豪華絢爛な家康さらに、徳川家康の着用していた衣装の豪華さについては、その膨大な遺品がつぶさに物語っている。それらは将軍家に伝わるもの、日光東照宮、静岡の久能山東照宮など家康を祀る神社に奉納されたもの、そして徳川の御三家として知られるように、家康の第9番目の写真6 「山道に丁子文様胴服」。石見銀山の見立て師安原伝兵衛が徳川家康より拝領したものである。紫根、紅花、刈安の染料を使った辻が花の技法で、三段の鋸歯文段の間に大小の丁子を散らした文様で、非常に精巧である子供である尾張義直、第10子の紀州頼宣、第11子の水戸頼房に分割して贈与された、「御駿府御道具分け」などの衣装には辻が花小袖など豪華絢爛なものが多数あり、数えるのが煩わしいほどである。そのなかで一つあげてみると、石見銀山の見立て師やまみちちょうじもんようどうふく安原伝兵衛が拝領した「山道に丁子文様胴服」があって、これは紫根、紅花、刈安の染料を使って、精巧な絞染をほどこした辻が花で、私のような染屋から見ても想像を絶するような手間と時間がかかっており、優れた職人達、澄んだ色が出る高価な染料などをよくぞ集めた、と感嘆させられるものである。古の美を尊ぶこのように、日本の色の流れは見事な美しさを表わしながら脈々と続いてきたが、明治維新を前後してヨーロッパで発明された化学染料が輸入され、その流れは曲折していった。私は伝統ある植物染を専らとしているので、その人工的染料や染めの方法は好まないため、これ以上の論を避けたいと思う。「温故知新」古の美を尊ぶのが私の信条である。Civil Engineering Consultant VOL.279 April 2018015