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Civil Engineering Consultant VOL.284 July 2019 023打ち震えていたといいます。未曽有の空襲により一面が焼け野原となり、市長が殉職したため、復興は遅々として進まず、市民は将来を憂い、悲しみが続きました。この場面を打開したのが、当時の長岡市商工会議所の駒形十吉会頭です。奮起を市民に呼びかけ、今の長岡まつりの起源である「長岡市戦災復興祭」をスタートさせました。その開催の挨拶が記録に残されています。「私共は今日その一周年を迎えて、まず犠牲者の身の上に想いを馳せ、そのご冥福を祈る真情切々たるものを覚えると共に、さらに遠く明治維新戦災焦土の状況も聞き伝えに想起して、今後復興のために如何に善処すべきかと(略)」これは現状を悲観せず、まず慰霊者を慈しみ、決して後ろ向きにならず、今後のために何ができるのか、という決意と読み取ることができます。悲しみに打ちひしがれていた市民は駒形氏に賛同、奮起し、戦災復興祭を開催。「先を見据える心の復興祭」ともいうべき事業の開催を契機に、復興が加速したと言えます。戦争は絶対にしてはならないという、当時の市民の共通の想いであった「慰霊」「復興」「平和への願い」という3つのキーワードは、70 年以上経った現在にも脈々と受け継がれ、華々しい長岡まつりの根底にある原動力となっています。この「想い」こそが長岡まつりの最大の魅力であり、先人の想いを引き継ぎ、守っていくという長岡人の気質が、長岡まつり最大の特徴と言えます。フェニックス花火のはじまり未だに記憶に新しいですが、2004 年10月23日にマグニチュード6.8、最大震度7を記録した新潟県中越地震が発生しました。長岡市内では建物損害被害9万棟以上、死者28人をもたらす大災害となりました。当然、市内は混乱し、インフラの復旧や復興に多額の費用が必要となり、行政は業務の中心を復興に注力しました。一方で、全国から様々な支援をいただき、日常生活を取り戻しつつある中で、次第に被災者の心のケアも必要となってきました。まさにこの時に、支えてくださっている全国の支援者へ感謝の気持ちを発信し、閉塞感が漂っている地域を盛り上げたいという想いから、若い力が自発的に結集しました。自分たちができることは何か検討を重ね、現在の「フェニックス花火」を生み出したのです。当時の長岡まつり大花火大会は、長岡市長が会長を務める長岡まつり協議会が主催していました。戦後から長く続く花火大会に、市民団体が独自で行うフェニックス花火の打ち上げは、当初は受け入れられず、花火大会終了後の番外に「震災復興祈願花火打上実行委員会」の提供として、市民の力により打ち上げられたものでした。番外として打ち上げられた「フェニックス花火」は、写真5  中越地震で甚大な被害を受けた長岡市山古志地域(旧山古志村)。地震で土砂が崩落し、川がせき止められて集落が水没し、住民は「全村避難」を余儀なくされた写真3(左) 空襲で焼野原となった長岡市中心部(提供:長岡戦災資料館)写真4(右) 長岡空襲で尊い命を失った戦災殉難者に対する慰霊の想いと恒久平和への願いを込めて灯籠を流す「柿川灯籠流し」