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Civil Engineering Consultant VOL.284 July 2019 037北アルプスという巨大な水の宝庫を持ちながら、水田を作ろうにも地表に水がなく、稲作には水温が低すぎた。畑作にも地下水位が低く、雨水に頼るほかなかったが、この盆地は年間雨量1,050mm前後と日本の平均雨量約1,800mmに対して少ない。それゆえ、安曇野は広大でなだらかな地形でありながら長い間、不毛の大地だったのだ。■ 縦堰の開発平安時代から鎌倉時代は全国的に土地開発が進んだ時期であり、力を蓄えてきた地方豪族が中央政権に寄進する荘園を各地に成立させた。安曇野でも矢や原ばら庄や住吉庄が作られ、地頭が新たな農地開発を行なった。大規模な開発には土木工事による農業用水路が必要となり、梓川や烏川といった大河川に水源を求めた。これらの用水路は等高線に対し直角に水を流すことから「縦たて堰せぎ」と呼ばれるようになった。縦堰は新しい村が作られる度に延長・分流され、上流から下流へ向かって放射状に延び、水田はそれに沿って広がった。しかし北アルプスから流れ出る河川は極端に水量が乏しい季節がある一方で、雨季には氾濫して農作物を押し流してしまう荒れ川でもあった。両岸で多くの箇所から取水していた梓川の村々は、一旦日照りとなれば下流域へ水は届かず、水争いが絶えなかった。安曇野の農民の生活は大変に厳しく、江戸時代に入っても何度となく松本藩に救助米を仰ぐ状況であった。■ 横堰の開発北アルプスから流れ出る梓川の水を利用した縦堰は中世までに多く開発されたが、広大な扇央部は依然として未開拓のまま残された。江戸時代における安曇野の新田開発の課題は未開拓地の広大な扇央部を開墾して農業生産力を向上させることと、常に一定の水量を保つ水温の高い水源を確保することであった。扇頂扇央扇端扇端扇央地下水面扇頂川横 堰等高線掛渡井(通水橋)分水縦 堰縦 堰縦 堰堰堰図1 扇状地の模式図と断面図図2 縦堰と横堰図3 安曇野の川と用水路(堰)