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Consultant285
038 Civil Engineering Consultant VOL.285 October 2019■ 地域の農業をささえてきた堰九州北部を東から西へ、熊本、大分、福岡、佐賀の4県にまたがり流れる筑後川。その中流域に形成された筑後平野に位置する朝倉市は、米、麦、特産の博多万能ねぎなどを栽培しており、周辺を代表する農業地帯だ。この豊かな農業地帯をささえているひとつが、江戸時代に築造された山田堰である。堰長は309mで、650haの農地を潤している。山田堰は「傾けい斜しゃ堰せき床ゆか式しき石いし張ばり堰ぜき」といい、大きな石張りの堰が筑後川の流れに対して斜めに配置され、堀川用水へと導水している。日本で唯一の石畳堰である。用水路の先には、水流を動力とする自動回転式の二連水車と三連水車があり、用水路の水位よりも高い農地への灌漑も可能としている。広い石畳と農地の中に佇む水車の風景は印象的であり、地域のシンボルとなっている。山田堰が最初に造られたのは1664(寛文4)年。現在の姿である石畳に造りかえられたのが1790(寛政2)年である。なぜ、200 年以上も変わらずに石畳の姿を残しているのだろうか。■ 筑後川中流に築造された4 堰1600 年代頃までの筑後川は「暴れ川」と呼ばれており、地域の人々は度重なる洪水と氾濫に悩まされていた。この頃は堤防も未整備で、洪水の度に地形が変わってしまうほどであった。朝倉市周辺では、水利の良い場所に数十軒の家と貧しい農地があるのみで、傾斜の激しい砂地が広がる地域であった。また、この頃の農地は標高の高いところに位置していたため、筑後川本流の水は用水には使われず、周辺の高台の谷間から流れてくるわずかな小川の水を利用して、田畑を耕し、あわ、ひえ、そばなどをつくっていた。農民は豊臣秀吉による身分統制令などにより、末代まで同じ土地を耕さなければならなかった。そのうえ「慶安御触書」の規制から、米を食べることや田畑の売買なども禁パシフィックコンサルタンツ株式会社/本社 総務・労務部山口 佳織/ YAMAGUCHI Kaori(会誌編集専門委員)山田堰第79 回江戸時代からまちと農業をささえてきた「山田堰」福岡県朝倉市