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Civil Engineering Consultant VOL.285 October 2019 039止されていた。それでも重い年貢を納めなければならない生活は、困窮を極めていた。そんな中、1662(寛文2)年に流域一体に大干ばつが起こった。この大干ばつによる飢饉は、安定した生活を送りたいと願う農民たちの筑後川取水の思いを強くするものとなった。また、年貢によりささえられていた藩の財政に影響を及ぼしたことも、取水工事を推しすすめていく大きな契機となった。土木技術が発達してきたことも相まって、筑後川中流域ではこの時期に山田堰を含めて4つの堰と取水施設が築造されている。上流から、1673(延宝元)年完成の袋野堰、翌年完成の大石堰、1664(寛文4)年完成の山田堰、1712(正徳2)年完成の床島堰で、これら4 堰を総称して「筑後川四堰」とも呼ばれている。袋野堰は1954(昭和29)年に完成した夜明ダムの下に沈んでいるが、それ以外の3堰は、洪水や氾濫により何度も改修を重ね、形を変えつつも現存している。最初に完成したのは山田堰だが、50 年ほどの短期間に4堰すべての取水が開始されている。堰の築造は各藩の指導の下に進められていたため、袋野堰、大石堰、床島堰は久留米の有馬藩、山田堰のみが筑前の黒田藩の所属であったことで、競うように水田開発が進んでいったとされている。■ 切貫水門の工事取水開始当初の山田堰の灌漑面積は150haほどであったといわれている。起伏の激しい土地であり、高台に水が流れなかったためである。完成から約60年後の1722(享保7)年、より多くを取水し水田を拡張するため、取水口の変更工事が行われた。当初の恵え蘇そ八はち幡まん宮ぐう前にあった取水口を約22m(12間)上流となる現在の取水口地点に変更し、筑後川に突き出した岩盤をトンネル状にくりぬく事で、それまで岩盤に突き当たって跳ね返っていた水を、直流で堀川に流すことができるようにした。これが現在も受け継がれている切きり貫ぬき水門である。このときの工事の安全と地域の水難がなくなることを願って建てられた、山田堰の切貫水門の上にある水神社には「罔みつはのめがみ象女神」がまつられている。恵蘇八幡宮山田堰N筑後川堀川用水久重の二連水車北線突分南線三島の二連水車菱野の三連水車大分自動車道図1 筑後川と山田堰・堀川用水写真1 山田堰模型写真2 水害後コンクリートに作り変えられた大石堰