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040 Civil Engineering Consultant VOL.285 October 2019■ 古賀百工という男山田堰と堀川用水の拡張に大きく貢献し、後に「堀川の恩人」と呼ばれた庄屋のひとりに古こ賀が百ひゃっ工こうがいる。本名を古こ賀が十じゅっさくよししげ作義重といい、1718(享保3)年に下大庭村に生まれた。百工の母が床島堰建設当時に筑前側の大庄屋の娘であったため、百工は、幼い頃から祖父に床島堰の工事の話を聞かされて育ったといわれている。生まれたときから堰の築造と常に身近な環境で育った百工が残した功績には、切貫水門の拡張、堀川用水の再整備、堀川南線の新設、山田堰の大改修などがあり、これらは地域に残っていた広大な原野を水田に変えることに大きく貢献した。1722(享保7)年の完成当初の切貫水門幅は1.5mほどで、用水の需要に対して取水量が不十分であった。1759(宝暦9)年、百工は切貫水門の拡張工事と堀川用水の拡幅工事について藩に建言し、その年に工事着工が命じられることとなる。堀川の拡幅は年内に完了したが、切貫水門の拡張は岩盤をくりぬく工事が難航し、翌年春に完成した。その後、さらに受益面積を増やすため、堀川を分岐し、新たな用水路として堀川南線を増設した。この工事は5年もの歳月を費やしたが、ここまでの整備により灌漑面積は370 haほどにまで拡大した。当時は測量技術も発達していなかったため、百工は自ら地形を踏査し、高張提灯や曲尺を使用して高低差を計算した。百工は土木技術に長けていたと伝えられているが、堀川本線の取入口から分岐地点(突つきわけ分)まで4,591mと、突分から先の3,882m分の高低測量は大変な苦労を強いられたであろうことが、容易に想像できる。■ 石畳堰への大改修1782(天明2)年、全国的な寒冷の異常気象により天明の大飢饉が起こった。それに加えて長雨や害虫の大発生などが続き、慢性的に食料が不足した。百工はこの頃には70歳近くなっていたが、土地を水害や干ばつから守り、住民の安定した生活を手に入れるため、さらなる河川の高度利用を考えた。それまでの山田堰は、突堤形式で不完全締切の堰であった。そのため、洪水のときには突堤の先端に流れが集中し、破損等の被害を受けることもしばしばあった。百工はこの被害をなくし、取水の安定を図るため、筑後川の横断面いっぱいに石を敷き詰める「石畳堰」への全面改修の計画をたてた。しかし、この全面改修は下流側の取水に影響を与えることが予想されたため、床島堰の受益地にある農家が猛反対した。また、湿害の多かった一帯にとっては、取水量が増えることで湿害がさらに悪化することが懸念された。そのため百工は、干ばつ時の解消方法や湿害の除去方法を考え説得に奔走し、なんとか同意を取り付けた。そして藩に目論見書を提出し、再三の設計内容の説明を行い、1790(寛政2)年、山田堰全面改修の大工事が実施されることとなった。堰の構造は大小さまざまな石を組み合わせた「空石張り」であった。切貫水門の直前には余水吐という、細くかつ勾配が急な水路を設け、余水吐へ水が呼び込まれることにより、切貫水門へ流れを導く構造となっている。またこの急勾配の水路により、運ばれてきた土砂を切貫水門の直前で排出できる仕組みとなっている。この構造は水理学的にも評図2 1953(昭和28)年の水害復旧工事図面写真4 山田堰の舟通しを往来する帆掛け舟(山田堰土地改良区所蔵)写真3 古賀百工翁頌しょうとくひ徳碑