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Consultant285
Civil Engineering Consultant VOL.285 October 2019 041価が高く、この石畳堰の完成により、灌漑面積は488haとなり、新田が120ha 開発された。山田堰大改修から8年後の1798(寛政10)年の夏、百工は81歳で生涯を終えるが、この地域への功績をたたえられ、水神社の罔象女神に合祀されている。その後も集中豪雨等によって堰の一部が崩壊することはあったが、その都度原型復旧を重ねている。1998(平成10)年に、老朽化による巨石の流出や堰体崩壊を防ぐため、それまでの空石張りからコンクリートを流し込んだ練石張りへと改修された。しかし変わらずに今でも一面の石畳の風景が残っているのは、長く水害に苦しんだ農民たちの願いの結晶なのであろう。■ 自動回転式の水車群山田堰から堀川用水を2kmほど下ったところには、3群7基の水車が稼動している。上流から「菱野の三連水車」「三島の二連水車」「久重の二連水車」と言い、これらの水車により川面より高所にある水田に水を送ることを可能にしている。水車の正確な設置時期は不明であるが、山田堰大改修の少し前の1789(寛政元)年ごろと推測され、実働する水車としては日本最古のものといわれている。日本の多くの揚水水車は小規模で、個人が所有しているものが多いが、ここでは3群あわせて35haの水田に水を送っており、地域資源として山田堰土地改良区によって管理されている。また、地域のシンボルとして観光資源にもなっている。水車は毎年6月17日~10月中旬、田植えから稲刈りの時期にかけて稼動し、冬から春の間は主要な部材がすべて取り外されて保管されている。5年おきに地元の水車大工によって作り替えられており、その巧みな技術は地域の中で長く継承され続けている。6月17日の通水式では水神社で神事が行われる。その後、水神社境内の地下にある水門を開くと、約2km離れた水車が稼働し始める。8月13~15日は水車がライトアップされ、お盆のために故郷へ帰ってくる人々を出迎える。朝倉地区の夏の風物詩として、水車の存在が地域に愛されていることが伺える。■ 水の大切さを伝える現在、山田堰による灌漑面積は650haほどあり、水利施設全体は山田堰土地改良区によって管理されている。山田堰、堀川用水および水車は地域のシンボルであり、農業と人々の食卓を守ってきた存在である。しかし、農業人口の減少や高齢化が進んでおり、これからの用水を農業者のみで保全していくことは難しい。2008(平成20)年、地域に住む有志が声をあげ「堀川の環境を守る会」が発足した。この会では水路のクリーン活動や水路沿いに彼岸花やコスモスを植えるといった景観保全活動について、毎年子どもたちを交えて実施している。また、地元の小学校では、総合学習の授業で筑後川や朝倉の農業、水源林の役割などを体系的に教え、山田堰の歴史や水源を守ることの大切さなどを伝えていく取組みが行われている。さらに、2010(平成22)年には日本から遠く離れたアフガニスタン東部、インダス川支流のクナール川において、山田堰をモデルにした石堰とマルワリード用水路が完成した。山田堰の優れた土木技術が高く評価された結果である。山田堰が江戸時代からつづく石畳の姿を残していくことは、地域の生態系を守っていくとともに、水害や飢えに苦しんだ時代に、知恵と技術を駆使して水田を切り開いてくれた先人たちへの敬意の表れなのではないだろうか。<参考資料>1)『改訂 山田堰・堀川 三百五十年史』山田堰土地改良区 2013年2)「JAGREE 83『特別寄稿 筑後川中流4堰の歴史に学ぶ -藩政時代における農業用水の開発』」黒田正治 2012年3)「土木史研究第14 号『筑後川中流域における水利の技術システムの変遷に関する研究』」坂本紘二 外井哲志 1994年4)『地域を潤し350年 歴史的農業遺産を守る』山田堰土地改良区 2015年<取材協力・資料提供>1) 山田堰土地改良区<図・写真提供>図1 株式会社大應作成 図2 山田堰・堀川三百五十年史 p54P38上、写真2、5 徳武広太郎写真1、3、6、7 細谷州次郎写真5 久重の二連水車写真6 菱野の三連水車写真7 堀川用水沿いに咲く彼岸花