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Civil Engineering Consultant VOL.287 April 2020 009られた。その後、1645年ベニス、1650 年イギリス・オックスフォード、1652年ロンドンに次々とコーヒーハウスができ、珈琲も普及していった。コーヒーハウスは、人々を酒場での酩酊の集まりから素面での集まりにさせた。そこでは回教徒諸国からのエキゾチックな味と香りを楽しむことができ、また市民の情報基地となって、郵便、保険、新聞等が始まり、市民社会の発展に大きな貢献をした。一方、ヨーロッパ列強は17世紀末から18 世紀にかけて、植民地で珈琲の栽培を広げていった。オランダ東インド会社は1690 年以降にセイロン、ジャワ島に珈琲栽培を導入、1700 年代にはジャワ・スマトラ・ティモールで栽培を行った。1706 年にジャワからアムステルダム植物園に苗が送られ、アムステルダムから若干の苗がルイ14世に贈られている。1718 年にフランス人将校ガブリエル・ド・クリューによってオランダ領ギアナに、1723年にはフランス領ギアナの沿岸警備隊副隊長パリェッタとギアナ総督夫人によって西インド諸島のフランス領マルチニーク島に送られ、当地で栽培が始まった。1730年にはジャマイカにも導入され、その後ブラジル、コロンビアに入り、南米が世界最大の生産地になっていった。珈琲飲用の広がりと禁止令1454 年、イエメンのアデンの回教寺院で、珈琲が一般の回教徒にも飲用が許されると庶民にも広く行き渡っていった。回教寺院の近辺には、路上で珈琲を売る露店ができ、回教徒達は珈琲を飲んだ後、寺院で祈ることが習慣になり、露店の数は一説によると、カイロだけで1,000店以上あったといわれる。16世紀後半から17 世紀前半にかけてキリスト教世界にも珈琲が広がっていくが、この異教徒の飲物が浸透するきっかけに、ローマ教皇クレメンス8世が珈琲に洗礼を施したことがある。これにより、回教徒だけの飲物とされていた珈琲がヨーロッパ全体に行き渡っていった。しかし、伝播・普及の途中で何人かの王がその影響力故に度々「珈琲飲用の禁止令」を出している。その裏には次のような事情もあった。イギリスでは1674 年、ロンドンの婦人達が珈琲の店に入ることに反対運動が起き、1675年チャールズ2世は珈琲の店で人が集い、政治談議するのを恐れ、カフェ図2  コーヒーの木の伝播(圓尾修三・廣瀬幸雄著『コーヒーの香味を探る+風味表現用語集』より)図3 焙煎機の普及エチオピアスリランカイエメンベトナムフランスハイティキューバコスタリカ(1759)グアテマラ(1750)メキシコ(1790)カメルーン(アラビカ種)1759年にはマルティニクの生豆をフランスに出荷していた記録がある*コーヒーの木の伝播は概ね上記の通りと言われている(1913)(1748)(1748)(1714)スリナム(18世紀)(数字は年代)マルティニク島プエルトルコエクアドルジャマイカベネズエラコロンビアフランス領ギアナブラジルロンドンキュー王立博物館(1874年)(1727年)ブルンジ(1930年)ドミニカ(18世紀)(1732)ボリビアリベリカ種シエラ・レオネアンゴラ(1792年発見) リベリア(1784)(1730)グアダループ(1734)(1730)ガラパゴス(1875)(1736)サント ドミンゴエルサルバドルホンジュラス(1715~1723) (1730) (1740)(1865) セント ヘレナ(1723)ケニアインドジャワ(19世紀)(1616)(17世紀半ば)オランダ1500年頃には既にアラブ人によりコーヒーが移植されていた1712には既に生豆をオランダに出荷していた記録がある(1616)(スリランカには2説あり、オランダからとジャワからとの説)