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Consultant287
Civil Engineering Consultant VOL.287 April 2020 037なります。前述した顕著な普遍的価値の3つの段階のうち、三池港は第3 段階に該当するとされ、石炭産業における産業基盤の確立期を顕す証拠とされています。三池港が整備された場所はもともと砂浜であり砂が溜まりやすく、また三池港が面する有明海は、遠浅で干満の差が5.5mもあるような海域であり、自然環境が厳しくおおよそ港を整備するには適しません。三池港以前に整備された港、例えば、三池港と同様に明治日本の産業革命遺産の構成資産となっている熊本県宇城市の三角西港は天然の良港とされ、もともと水深が深く、潮流が穏やかな場所に整備されています。それでは、三池港はいかにして厳しい自然環境に対抗したのでしょうか。それはまず、沖合まで約1,700mの突堤を築くことで、大型船の入港を可能とする細く長い形状の航路を確保し、その航路が漂砂によって埋没することを防止しました。また潮の満ち引きに左右されることなく、大型の船舶が石炭を積み込むことができるように、港奥側の船渠(ドック)の入り口には閘門が設置されています。潮が高いときには開いて船舶が船渠内に入ることができ、潮が引く際には閉じて船渠内の水位を8.5m以上に保つことで船渠内の船舶は干潮時であっても石炭の積み込みが可能でした。三池港が整備される以前は、大牟田沿岸で石炭を大型船に積み込むことが不可能であったため、小舟で対岸の島原半島南端の口之津港まで70kmも海上輸送し、そこで大型船に積み替え、海外に石炭を輸出していました。しかし三池港が整備されたことにより、石炭を大型船で効率的に海外へ輸送することが可能となり、石炭を海外に売ることによる外貨獲得が促進され、これを財源として日本の急速な近代化が実現しました。三池港の整備は、それまでの日本の築港の歴史において無かったほどの大規模かつ難易度の高いものであったにも関わらず、お雇い外国人から技術を習得した日本人技術者によって成されています。このことは、西洋との技術的な交流及び日本の急速な近代化を支えた高度な技術の証拠であり、三池港の世界遺産としての価値となっています。三池の整備に際して中心的な役割を担った実業家の団琢磨は、以下のような言葉を残しています。「石炭山の永久などという事はありはせぬ。無くなると今この人たちが市となっているのがまた野になってしまう。これはどうも何か(三池の住民の)救済の法を考えて置かぬと実に始末につかぬことになるというところから、自分は一層この築港について集中した。築港をやれば、築港のためにそこにまた産業を起すことができる。石炭が無くなっても他処の石炭を持ってきて事業をしてもよろしい。その土地が一の都会になるから、都会として『メンテーン(維持)』するについて築港をしておけば、何年もつかしらぬけれども、いくらか百年の基礎になる」(『男たちの世紀-三井鉱山の百年』三井鉱山株式会社、1990 年)三池港が、築港から100 年以上が経過した現在も物流拠点として重要な役割を担っていることを考えると、世界遺産級の技術者になると100年先を見通す技術力を持っていたということかもしれません。<写真撮影>写真1?5、7 筆者写真6 三池港空中写真(出典:国土地理院ウェブサイト 地図・空中写真閲覧サービス)写真7 三池港閘門