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038 Civil Engineering Consultant VOL.287 April 2020■ 現在も呉市の生活を支える水道施設「本庄水源地堰堤」は広島県呉市の二級河川である二に河こう川がわに位置する水道施設である。施設は堰堤や丸井戸、第一量水井、導水路、吉平取水場などから構成されている。現在は呉市の上水道用水として市民の生活を支えているが、かつて呉鎮守府の軍用水道用水としての目的で1918(大正7)年に築造された水道施設である。鎮守府は日本海軍の重要拠点として、呉の他、横須賀、舞鶴、佐世保の計4カ所に設置された。呉鎮守府の海軍工廠で「戦艦大和」が建造されたことは有名である。第二次世界大戦後、本庄水源地堰堤は旧軍港市転換法に基づき1953(昭和28)年に呉市へ譲渡された。この法律は旧軍港市を平和産業港湾都市に転換することによって、平和日本実現の理想達成に寄与するために作られた。1912(大正元)年に着工した本庄水源地堰堤は、第一次世界大戦(1914~1918 年)中に築造された。堤高25m、堤頂長97m、堤体積20,000m3、総貯水容量は200万m3あり、完成当時は東洋一の規模を誇った。堰堤の構造は石張りの重力式コンクリート造りとなっており、石材を活かした美しい装飾が特徴的となっている。なぜ、戦時中に意匠性(デザイン)にこだわった堰堤を築造したのだろうか。■ 呉水道と本庄水源地堰堤の関係性本庄水源地堰堤が築造されたきっかけは、1886(明治19)年、呉市に鎮守府が開庁されたことが始まりである。開庁にともない1890(明治23)年に二河川を水源とする呉鎮守府水道が開通した。しかし日露戦争(1904~1905年)後の海軍拡充期には、就労者や艦艇、海軍工廠で使う水の需要が急増し、水の供給不足になっていた。そのため1911(明治44)年、抜本的な補強をするために焼山と本庄両村を水源とする本庄水源地堰堤の建設が計画された。これまでの上水道は海軍専用の施設であったため、市民八千代エンジニヤリング株式会社/事業統括本部/社会計画部徳武 広太郎/ TOKUTAKE Koutaro(会誌編集専門委員)真正面から望む本庄水源地堰堤第80 回石材による装飾が美しい「本庄水源地堰堤」広島県呉市