ブックタイトルConsultant287
- ページ
- 41/86
このページは Consultant287 の電子ブックに掲載されている41ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは Consultant287 の電子ブックに掲載されている41ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
Consultant287
Civil Engineering Consultant VOL.287 April 2020 039が恩恵を受けることはなかった。一方、沼沢地を埋めたてて形成された市の井戸水は水質が極めて悪く、市民は疫病に悩まされていたため、上水道敷設を願う声は大きかった。そのような中、当時の呉市長荒尾金吾は、市民のための上水道敷設の必要性を感じ、本庄水源地堰堤からの余水分与を呉鎮守府司令長官へと請願した。市の衛生環境の悪化が、隊員の士気低下に繋がることを懸念した呉鎮守府司令長官加藤友三郎は、1913(大正2)年、市への余水分与を承諾した。これを受け呉市は、本庄水源地堰堤から余水を受けるための平原浄水場を建設し、1918(大正7)年4月に悲願であった市民のための給水が開始された。■ 堰堤建設に関わった土木技術者実は1906(明治39)年から、本庄水源地堰堤が位置する二河川水源地付近で測量が実施されており、1910(明治43)年6月には、海軍省臨時海軍建築物員の吉村長策が呉視察を実施している。その際、吉村は呉海軍建築科員の西尾虎太郎から堰堤候補地の報告を受けた。その後の1910(明治43)年12月、二河川本流に堰堤を設け貯水池を築造することとなった。吉村は、長崎市にある1891(明治24)年に完成した日本初の水道用ダムである本ほんごうちこうぶ河内高部堰堤の設計担当で、近代日本の水道普及に尽力し「水道の父」と称される人物である。設計に係る実務の中心的な役割を担った土木技術者は、呉鎮守府建築科長の井上親雄と科員の飛山昇治の2 名とされている。井上は横須賀4号ドックや、青森県むつ市の大おおみなと湊沈ちんちょうち澄池堰えん堤ていの築造に関わった人物である。飛山は名古屋市の大街路網プランの発案者であったと言われている。堰堤設計の中心的な2人であったが、井上は1917(大正6)年に疾病により辞職願を提出しており、同年7月には飛山も脳神経衰弱症により辞職願を提出したとされている。堰堤の設計期間が短く困難を極めた結果、両者が精神的に追い詰められたのではないだろうかと勘ぐってしまう。堰堤の築造工事は1912 年に着工し、1918 年に竣工している。6 年間で延べ1,727,800人が携わり、死亡者15名、負傷者259名を出したことから、非常に難工事であったことが伺える。■ 本庄水源地堰堤の美しさ本庄水源地堰堤は呉軍港水道施設であり、軍事機密で図2 取水塔正面図導水路二河川(付替)洪水吐き管理棟吉平取水場カスケード階段第一量水井堰堤&取水塔丸井戸流入口本庄水源地図1 本庄水源地の平面図